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カメラこだわり読本 '92・・・その1 デジタル化へのジレンマ

1992年の毎日グラフ別冊のカメラこだわり読本という雑誌。

定価2,000円もする高級雑誌です。
中古本で買いましたので240円でした。
1992年というと平成4年です。
天皇が中国に訪問し、国家公務員が週休2日制になった年で、岩崎恭子が金メダル。天皇は中国に訪問したんですね。忘れれてました。
今から22年前です。
カメラこだわり読本に書かれている内容は、1992年の最新のカメラ情報ではありません。
デジタルカメラがまだ台頭していない時代ですがデジタルカメラの開発が行われていた時代です。
フィルムカメラはAFが普通になりつつあり自動露出、いわゆるシャッター押すだけのカメラがマニュアルカメラにとって変わろうとしていた時代です。
そういう時代の変化をジワジワ感じつつ、いやいや、カメラはマニュアルの操作感でしょうという、自分のこれまでのマニュアル経験の資産が誰でも簡単に真似できて写真を撮ってしまうことへのジレンマな時代でもあるようです。
カメラこだわり読本の執筆者はおじさんばかりです。
この当時はカメラはおじさん権威の世界だったのでしょうか?
例えば20年後、デジタルカメラ全盛、しかも写真はスマホで撮る時代になるとは誰も想像出来なかったのです。
カメラの進歩は20年前の想像からすると今のデジカメは恐らく100年先の未来のカメラであったはずです。
そういうことをふまえて読んでいくとなかなか面白いです。
オールドカメラファンではないので、過去のカメラがどうだとかこうだとかはあまり興味がないのですが、読んで面白いと思った記事は

ミノルタαシステムのOTAKU度」です。

これ、20年以上も前のカメラです。
今見るとこのスタイルは違和感ありませんが、20年前は拒否反応バリバリだったと思われます。
産まれたのが早すぎたんでしょうね。

執筆者はクーネルサンダー平山さんという方、2011年55歳でお亡くなりになっています。
結構、熱い方だったらしく某カメラメーカーからの圧力で業界干されたこともあるらしいです。
記事を読むとあちこちに熱い性格がにじみ出て面白いです。
今の時代、カメラの評価はプロカメラマンが一番信用出来ないです。スポンサード受けられなくなりますからね。
サンダー平山さんの肩書きは世界唯一の写真機家であるそうです。つまりカメラの批評家ということでしょうか。
ミノルタα7xiのデザインについてサンダー平山さんは決して小さいサイズのカメラではないが小さく見えてしまうのは全体のバランスがよくとれていてスペースの使い方に無駄が無いと評価しています。
当時の評価はシャッターボタンの前にダイヤルがある、カニみたいなスタイルと評価されていたようです。
そして、ミノルタα7xiの先進機能を紹介していきます。
オートズーム機能があったそうなのですが、「小さな親切、大きなお世話」「写真家をなめ切った態度」とさんざんな評価であったそうです。
しかし、サンダー平山さんはカメラが電子化されると取扱説明書も厚くなり、読まない、理解出来ない、そういう人に限って低レベルな評価を真面目な顔して言うとバッサリです。
その理由のほとんどが電子化されてボタンが増えた操作方法に頭がついていかなかったというオチもつけています。
カメラというもの初心に帰り、心を無にして、とりあえずカメラまかせで撮ってみる。
そうすると最初はヘンと思ったことも意外と面白かったりする。
そうするとカメラにたいする疑問が生まれ、カメラの取説を読むようになる。
言い換えればこれまで苦労して身につけた「感」や「経験値」のような物が電子化され、だれでもプロのような写真が撮れるようになった。
ボタンやダイヤル操作は難しい一面があるのは確かだが、その機能、目的を知る前に理解出来ないからといって意味も無く嫌悪感を抱くのではなく、とりあえず妙なプライドは捨てて使ってみては?
ということを言っているような気がします。
まあ、おやじ権威のカメラマンには耳が痛いでしょうね。
カメラは万人に広がる趣味である。一握りの岩頭の頑固ジジイが己の理解能力が足りないからといってカメラの裾野を広げる技術革新に一言もの申してどうするんだ、黙ってマニュアルカメラで遊んでろということでしょうね。
ミノルタはこの当時は先進技術を積極的にカメラに取り入れていたようで、グリップを握ってファインダーを覗くと両方のセンサーが反応して測光とフォーカスを済ましてしまいあとはシャッターを押すだけの状態にしてくれるゼロタイムシステムを取り入れていたそうです。
これって今でも「小さな親切、大きなお世話」っぽいですね。
でも、サンダー平山さん的には夏の海岸でのスナップ、つまりビキニ女性を咄嗟に撮影する場合に絶大な威力を発揮していたそうです。
ただ、バッテリーの消耗が激しい。
このカメラを見ているとまるで1992年の現代を見ているようだ。便利な機能が一杯だが、そのぶんお金(バッテリー)がかかる。と皮肉っています。
また、当時はプログラムAEは大御所の写真家や地方の写真団体の先生方は口を揃えてプログラムAEを全否定していたそうです。
プログラムAEなんてダメだ、絞り優先かマニュアルで撮りなさい。とのたまっていたそうです。
確かにプログラムAEも今のように進化していないのですが、そもそもプログラムAEなどという機能はカメラ初心者用のF値の暗いズームレンズ向けであり、大先生が使うF値の明るい大口径レンズなど持たない人向けの機能であったはずです。ということを言い当てています。
プロと同じ視線でカメラ業界を見るなということです。
ここでも権威主義を皮肉っています。
このミノルタのエキスパートプログラムは凄くて、レンズの焦点距離、AFで計った撮影距離、ハニカムパターンの測光から被写体が人物なのか風景なのか、さらにその被写体が動いているのかを判断して露出を決めるAEであったそうです。
サンダー平山さんは、どうせ、絞り優先AEでと騒いだところで絞りはいつもF8を使う程度の写真家より、より多くの情報から適正な露出を決めるミノルタのエキスパートプログラムのほうがよっぽどましであると言っています。
なかなか言う筆者です。
さらに、長年あれこれ小細工を覚えたベテランアマチュアよりも最近写真を始めた何も知らないおばちゃんのほうがいい写真を撮る確率が高く、コンテストでベテランを退けて賞をかっさらっていくおばちゃんたちは、細かいところを気にせずに被写体にまっすぐに向かっていくからである。
と言っています。
小細工はカメラまかせ、いい写真は小細工ではなくてただ被写体を見ている。ということです。
また、シャッタースピードミノルタは1/12000という高速シャッターが切れたそうです。
このことについてもそんな高速シャッターは不要である。シャッタースピードは1/250、F値5.6で十分という写真家に対して、使う露出がいつも一定ということはワンパターンな撮り方しかしていない証明であると言い放ちます。
世の中の常として1/12000のシャッターが切れるという事は1/8000のシャッターが安心して使えるということである。ということです。
測光方式ではミノルタは14分割の測光エリアで測光する多分割測光方式が選択でき、サンダー平山さんは従来の中央重点測光方式と比べると「たぶん勝つ測光」と言っています。
ミノルタα7xiの測光は中央重点測光のデータと多分割測光のデータが比較が出来て±の補正が可能で、多分割測光での弱点を補う事が出来るというプロ仕様の機能も持ち合わせていたそうです。
最後に誰でも簡単にいい写真が撮れるための、カメラの電子化からくる操作の複雑さが理解出来ないことを使えないカメラと言い切ってしまうことは決して自慢出来る事ではない。と締めくくっています。
サンダー平山さん、権威主義で新しい物、技術革新についていけないがために批評する大御所の写真家が嫌いだったんですね。
今もいらっしゃればサンダー平山さんの歯に衣着せぬ物言いはおおいに受け入れられていたのではないでしょうか。
次に

「金属カメラの逆襲・・・今まで見えなかったペンタックスLX」です。

プロの写真家ではない筆者(作家さん)がアマチュアゆえプロのカメラマン以上にカメラが欲しいという気持ちを解説しています。
プロはカメラがなくては生活出来ない。だからカメラが必要。アマチュアはカメラが無くても生活出来る。だから無くても困らない。
無くても困らない物を必要と感じるのは、必要とするエネルギーはアマの方が強力だといっています。
まあ、三段論法で説かれるとフーンと思ってしまいます。
この頃のカメラはAFとマニュアルが半分半分であったようです。
カメラの世界は新しい技術が導入され始めるとその技術に関してあーだこーだになります。
この本にはNikon F4のAFの甘さを嘆く報道カメラマンの記事がありますが、AFが遅いがゆえに”スカシ”と呼ばれる車の中の犯人の表情をストロボを使って一瞬切り取る撮影技術がNikon F4のシャッターラグの時間差で撮れないということです。AFに時間がかかるのでシャッターが反応しないのだそうです。
これってOVFとEVFの長所短所とよく似ています。
測光がオートになり、AFが生まれカメラは格段に使いやすくなった、しかし、そういうカメラが嫌いだと言っています。
カメラは金属がいい、機械式シャッター音が好きだ、AFにオートの露出は便利だが愛着がない。いつまでもそばにいるな。例えばパワーズーム機能、こちらがまだ何もしていないのにカメラが勝手に動く。何だかバカにされているようだ。いや、事実バカにされているわけで、カメラが考えて動きますからあなたはバカのままでいてください。と言われているようだ。品のないサービスだ。
オート化を品のないサービスというこの人どんな人でしょうか?
で、ペンタックスLXに出会い、LXに惚れるがレンズを選ぶカメラである事を知り、あれこれ試行錯誤を重ねてマニュアルカメラには明るい単レンズが似合うという結果にたどり着き、それまでの過程を渦巻きだといい、その渦巻きが重要と言います。
つまり、機械式の単純明快で単純明快であるがゆえの機械ならではの分相応が分かってきた。だそうです。
電子化を生ものというところから、金属カメラの逆襲というのは電子化されるカメラへのアンチテーゼでしかありませんね。
先のサンダー平山さんとは大違いです。
やはり、カメラこだわり読本という本にはこだわり者が多いです。
さらに

「私が20年来キャノンF-1に、そしてライカにもこだわり続けている理由」

これは写真家の記事です。
冒頭から 今のところAFの世話になるつもりはない、と断言します。
ミノルタα7000で初めてAF化されたフォーカス。各社がこぞってAFカメラを生産したが一度も使ったことがないと前置きです。
何故かというとカメラは道具であるからカメラ任せにすることですでに道具でなくなってしまっている。オートで撮った写真はどれもこれも同じでつまらないと言います。
この方も金属製のカメラの重厚さに安心感を覚えるそうです。
使ったことのないAFをすでに毛嫌いしています。
カメラの電子化に拒否反応を示す記事が目立ちます。
しかも写真の未来を担う写真家に限って拒否反応しめしています。
またこういう記事もあります。
”かって写真はホビーの代表選手であった。しかし、今は他の道楽がいっぱいあってホビーとしての写真の存在感は薄い。何故かというと誰でも簡単に写真が撮れるからだ。誰でも容易く達成到達出来る作業はホビーにはなり得ない。写真はカメラの機能が良くなったおかげだけども、残念ながら人間様は不要で、サルがシャッター押してもピント、露出ともに申し分ない写真が得られる。サルに無いのは構図する力である。これは個人のセンスの問題であってホビーの範疇を超える。いくら写真を撮り重ねてきたマニアも、今日写真教室でカメラを持ったおばさんに写真で負ける事がある。そこで写真はホビーとしての存在から次第と遠くなるのである。”
今の時代、こういうこうとを発言するとコメント欄が炎上するでしょうね。
つまり、写真のカメラの能書きたれたいのです。
”AFの便利さハイテクAFカメラに盛り込まれる新機能も素晴らしいが、だからどうなんだ、それによって写真表現にどのような可能性が生まれるのかと問い直してみると釈然としない。カメラは道具である。しかし、近頃のカメラは道具でないカメラ多い気がする。カメラが自分の意志で勝手に写真を撮ってしまう。カメラの操作を主目的にするようなカメラやカメラマンに何かを命令するカメラまで現れてきた、そういうカメラを持つと頭にくることが沢山ある。”
”一眼レフもここ何年かのあいだにカメラというよりはエレクトロニクス商品の色彩が強くなった。カメラは写真撮影を楽しむ道具なのに、そこのところを忘れてしまったのではないか。本来は光学機械であるカメラを実際はエレクトロニクス屋さんが作っているんだろうか?」
などなど・・・。
AFや測光方式、露出制御がオート化しただけでこんなにカメラは道具ではないとか、使えないとか、間違う時がよくあるとかあげあしとりされるのですから、フィルムカメラにとってかわってデジタルカメラに移行していく時にどのような記事が書かれるのか興味ありますね。
たしかに、一発勝負のフィルムカメラには人間でないカメラが判断する設定に疑問を抱く気持ちはわかりますが、写真をパソコンで修正する時代になろうとは、これは当時の写真家からすると言語道断な事かもしれませんね。
共通して言える事はオート撮影とマニュアル撮影の自然な共存がなされていないことにたいしての不満のようですが、先のサンダー平山さん曰く取扱説明書読めにも繋がる機種も中にはあるのだ。です。
気になる記事に
”ところで技術的に見れば、一般的に一眼レフカメラに比べてみてもコンパクトカメラの方がずっと個性的で大胆な機種が多いと思う。新しい技術なんかもどしどし取り入れて実験しているような機種もある。で、うまくいけば一眼レフに取り入得れようとする、一眼レフの斥候みたいなもんだろうか。”
これ、デジカメの発展見ると的を得ていますよね。
ということで、カメラこだわり読本、最終号は2003年ですが、カメラの電子化に対するカメラ好きおやじのジレンマがありありと読み取れる記事を調べていきたいと思います。