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車を買った。。HONDA Freed Spike

車を買った。モビリオスパイクからフリードスパイクだ。

8年ほど前から壊れ始めた車に10年乗った。
これまでの車遍歴から言うと一台の車を壊れるまで乗ったのは初めてである。
トヨタ、アメ車、ホンダ、ホンダに変えてホンダ以外乗れなくなったのだが、ホンダは三台目である。
修理して乗ろうと思った。
しかし、数日前から走行中にドアロックがオンオフ繰り返すようになって、これはひょっとしたら明日の朝とかエンジンかけたらドアがポロリと外れてしまうのではないかという、ちょっと前のコメディー映画のようになるのではないかと真剣に考えた。
10歳若ければ躊躇なく車を買ったであろうと思うのだが、実際、10年前は車は最短で3年周期であった。
しかし、10年という歳月は人の考えを変えてしまうものだ。
今まで乗っていた車をなかなか捨てられないようになってしまった。
まず、
贅沢だ。贅沢に関して罪悪感を覚えてしまう。
カメラのカバンを買っては捨ててを繰り返しているような人間がなぜ突然、贅沢に関して罪悪感を覚えてしまうのだ?
今も心の何処かで車を修理して乗ったほうが天国に対して善であるのではないか?と訳のわからないことを考えてしまっている。
僕の宗教が何処かに行ってしまうのではないかと、昨日まで宗教法人に課税すべきだと力説していた癖に、心の中の何かが警鐘を鳴らしているのだ。
バチが当たる。何か贅沢をしたら贅沢に対して恩返しをしないと頭の上に植木鉢が落ちてくるような不幸に陥るかもしれない。孤独な老人に笑顔だ。ボランティアしかない。
いや、犠牲だ。キリスト教徒のように右の頬を殴られたら左の頬を差し出すのだ。
一切れのパンを与えられたらそれに感謝し、対価として100倍の自己犠牲を強いるのだ。
人が生きていく為には一つの変わらないものがないと生きていけない。
多分変わらないものとは本人にとっては一番の恐怖となるものに対する保障である。
あるいは、もう諦めてしまえばいいのだ。
諦めれば明日の天気を気にしなくなる。
天気予報見なくていいので楽じゃないか。
心に悪を持たず善を積むにはひっそりと、道の隅っこを俯いて歩いて行く必要がある世の中だ。
という事で、納車の日は廃車の日でもあるので、最近気になっている近所の18歳になる老犬の今後を見守りつつ、今度の土日はじき廃車になる運命のお世話になった車をピカピカにしてあげようと思います。